『休日』
今日休みです。ウロウロするにも雨が降ってます、出ていきづらいです。自分には非常に珍しいことなのですが、部屋にこもって掃除しています。で、PCを色々と覗いていますと、今年の5月28日20時頃に書き始めた(そういう記録が残っている)書き物が出てきたので紹介します。多分自分のオリジナルですが、まあ、その気があればお読みください、何と言うか、少々こむづかしい感じなのですが、所詮書いている人間が、人間ですので、そうたいしたことでは無い筈です、ではどうぞ(笑)
『思考という事』
人のカネ(地位、名誉、出世、権力)なぞ、羨ましいものか?人のラッキーなぞ羨ましい訳がない、誰と誰が棚から牡丹餅を得ようとも、祝福こそすれ羨む事などない。ましてや嫉妬などと、といった事とは、無縁である。その種感情ではない、しかし、テイストとかでは多分混じっているのであろう、多くないその種の雰囲気というか成分が、主流であるはずのものが今はまだ見えてないので、チラホラ香ってやり難い。まるで、嫉妬、しているかのように感じてしまうからだ、勿論自分が、である。
自分の探求、いや『煮詰めていきたい』ものが、この『思考』というものであるならば、思考が至高となるまで試行を繰り返す手段として入口に『文章』ライミングがある。
『先ず、言葉ありき』は聖書の言葉か何かであった記憶があるが、それは重要ではない。先ず、この言葉を前提とする。
人間の思考というのは、言語を介在させている。これは実感である。日本語でモノを考えている。当然に日本語の傾向性に引っ張られて考えていると予想できる。これは英語でもフランス語でもドイツ語でも、ありとあらゆる言語にて同じことがいえると予想できる。
バイリンガル、トリリンガルと多言語化を達成している方々は少し違うのかもしれないが、多少切り替えや、混在が存在するだけで、シンプルにすると、同一構造であると予想できる。
言葉が言葉を呼び、イメージをシンクロさせ、途中迷宮を彷徨(さまよ)うとも、基本連続して続いている、その全体を指して『思考』とするか、そういうものを集約、結晶化させたものを『思考とする』かは、其の時々の必然の状況、ではなく、偶然の産物であっていいし、恣意性が介在してもいいと考えます。実験前の直観ベースで申し訳なく思うのであるが、どういう結果であるにせよ、言語と思考の密接な関係は動かしがたい事実であると考えます。
では、言葉と人間は『どちらが先』なのでしょう。これは当然に『人が先』なのでしょうが、次のことに思いを馳せる場合、雲行きは妖しくなり、何か承服、名状しがたい感情がおこってきます。人間が『考える葦』であるならば、考えない人間は、人間ではないのか?言葉が無い時代の人間は考えられないことになり、それは最早、人間ではない、という事になるのか?じゃあなに?動物?という事か?
『考える』という事と、同義何だか、反対語なのだかは、分からないが『感じる』という行為がある。感じる事と、思考とは、確かに相容れないのかもしれない。『感じる』ことが出来れば、もし、その感じたことを伝達さえできれば、よもや、言語⇒思考は、いらないのかもしれない。
しかし、それは出来ないからとかいう退行的な結論から、言語⇒思考は存在するという事ではない。もっと有意義にその思考に埋没出来るものである気がする。
『難しい話』『わかりにくい』『より簡単・便利』兎に角、伝達、宣伝はシンプルに。というコンセンサス(事前承認)があるかの如く、世の中は、人々は、進歩発展という同一列車に『乗せられている』気がする。その際の『思考』などとは無縁、寧ろ、悪者、という扱いのごとく。
本当にそうだろうか?大多数の未熟な我々は『思考停止』してしまってよいのか?
いいのではないか?と考えます。それは『他人ごと』だからです。そういう人はそれでもいいのだと考えます。他人の自己責任論です。とやかく言えません。
しかし、本来から申しますと、思考停止は動物に退行することを意味するので、いい訳がない。『考える葦』こそが人間であるからです。人間が人間たらしめる必要条件を放棄する人のことまで『知ったことではない』という事です。
では、考えてるつもりの人はどうなのでしょうか?いいと思います。『考え足りず』という結論ですが、この判断はそれこそ各人が下すもので、他人がとやかく言うものではない、からです。
今は自分がこの思考を試行している真っ最中です。もう少し、他人は関係ない独自性の海の中で、自ら井に帰り、空を見上げ『井の中の蛙大海を知らず、だけど空の高さを知る』式で頑張って踏ん張ってみようと思っています。