なんて飛騨
昨日お仕事が早めに片付いたので、喫茶店で休憩していました。
そこは、割と『昔の和歌山』がわかるような本が多めに置いてあります。
基本単独行動の私は、それらの本やら写真集やらを、よく眺めているのですが、昨日は、こういうやつに出会いました。
[7-1213](万葉集7巻1213番と思われます)作者未詳(わからんのかい!)
名草山 言にしありけり
わが恋ふる
千重の一重も 慰めなくに
なぐさやま ことにしありけり
わがこふる
ちへのひとへも なぐさめなくに
訳:名草山はことばに過ぎなかったなあ。
私の恋する苦しさを
千の一つも慰めないことだのに。
今myPCなので、上記の情報がサクッとでますが、茶店で見た時は、基本スマホなので、『読み方は?』『こい、いや、こ、ね』『ちよ?いや、ちへ、ね、ひとへ、ね』と読み砕いていき、何とか曲調(57577とかのやつ)に乗ってまいりました。
ただ、『名草山が、ことにしありけり?こふる?・・・・なぐさめない????』と全く意味が取れません。それで、ダラダラググってますと、上記の『訳』にぶち当たりました。
閑話休題、何で、いきなりの万葉集かと申しますと、以前も申しました通り最近ヒップホップのフリースタイルバトルってやつに惹かれてまして、よく動画を観たりしてます。やれ、韻だ、VERSE(バース)だ、LYRIC(リリック)だ、BEAT(ビート)だ、何だ、かんだで、楽しく見させてもらってるのですが、よくよく考えてみると、和歌だの俳句だの詩とかいう『制約のある表現方法』ってやつは、『相通じる』ものがあるんじゃねえか?いや、圧倒的に、和歌だ俳句だ詩の方が『前からやってま~~す、うちら』というか、圧倒的『歴史と伝統が支える匠の技』と申しましょうか『芸が細かい』んじゃねえか、とか考えるに至りまして、じゃあ、一丁見てみるか、地元のやつがいいしなあ、そういや中学校の石碑には『若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る』(正確にはこの字ずらではないのですが)ってのが、あったなあ。こいつは因みに『和歌の浦に潮が満ちて来ると潟が無くなるので、葦のほとりを目ざして鶴が鳴き渡ることよ。』と何と無く意味も分かるし、情景描写系なので、一枚の写真を見ているような、情景、を思い描けるような気がしないでもない様な気もする。(休憩終了)
この訳は、何か『名草山』の『なぐさ』と『慰める』に掛かっているらしく今回は『慰めない』となっています。ここがポイントだと考えます。『名草』なら『慰める』に掛けても良さそうなものなのに、今回は『慰めない』に掛けています。
で、以上な感じを踏まえまして、ここでわたくしなりに意訳してみますと
『名草山???口ほどにもねえな、だって私の恋に関しては千に一つも、全く、全然、助けちゃくれねえもんなあ』
てな感じですかね。意訳というか、まあ、大体言葉通り程度の訳になりましたが。
『作者不明』は分かるような気がします。おちょくってますもの、この作品。名草山の名草だけ取って、慰めるに当てて、しかも勝手に否定形にして、自分の都合(=恋愛)に勝手に当てはめて、挙句の果てには、恨み言という身勝手極まりない所業のような一句だと思います。大体風景見て、ポジティブになれず、ネガティブ引き摺るなんざあ、自分の問題をモノに当たっているかのようで、薄みっともない行為のような気がしますし、こんな超個人的な見解で、勝手に名前を使われた『名草山』にとってみれば『いい迷惑』以外の何物でもない気がします。
『若の浦』云々のやつは確か『山部赤人』だったような気がしますし、『和歌の浦』も『片男波』もどっちも喜んでいるようなWinWinな関係で、思わず『旨い』てな感じですが、今回のは『名草山』にとってみれば『勝手に殴られた』的な感じに見えます。まさに『知らんがな』ってやつだと思いますよ。
まあ、『恋』ってやつは、今も昔も、『儘(まま)ならない』ってことなのですかね。
(え、これで終わり?これで落ちてるの?大丈夫なの?)
PS タイトルの『なんて飛騨』は『なんて日だ』と打とうとしたら、うちのPCが勝手にこうきたのでありまして、面白いので『採用』と相成りましたで御座います。