文豪の凄い語彙力

夜中やね、早い段階から風呂も入らず寝入ってしまい、起き出した夜中に、慌てて風呂に入り、風呂上りまったりとして、今である。明日というか今日仕事なのに寝ずにグズグズしとる訳です。
前々というか最近、いや、此処の処、岡潔の著作に嵌(はま)っておりまして、中々抜け出せない心持です。抜け出せないポイントはいくらもありますが、その内の本題(というものがあればですが)から割と離れたところにあると思われるもののひとつに、常用漢字に文句をいう岡潔というのがあります。『春宵十話』だったか、何だったか、はっきり覚えていないですが、孫の名前に悠、とか、久、とか付けたいのであるが、常用漢字、というものが出来て、それに入っていない、常用漢字というやつは、誠に日本人の表現力を削ぐような由々しき事態であるとかなんとかであったように思います。
あと、岡潔のエッセイには、『夏目漱石』『芥川龍之介』『松尾芭蕉』というのが頻繁に出てきます。基本ウカウカしている私は、初め気付きませんでしたが、最近になってこの人達が、岡潔が感銘を受けた、影響が色濃いと思われる人物な訳です、いや、そうだと勝手に思っています。
芥川龍之介の作品は多分読んだことが無いし、松尾芭蕉の俳句を知らない訳ではないでしょうが、じっくり味わったことが無いのは確実です。
で、少しは読んだ事のあるのが夏目漱石なのですが、明治の文豪、教科書に載っていそうな作品群、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』なんかは、あるのは知ってる、いや、もう一般教養という奴かもしれない、お札の人だしね。
しかし、『坊ちゃん』を読んだのは多分ここ10年以内だと思うのですが、読みにくい事この上なかった。
表現が何だか変だし、漢字の感じが、まあ、違う、話もそれ程面白く無いし。とまあ、憤懣(ふんまん)やるかたなしだでした。
その印象が少し変わったのが、『夢十話』です。日本のトップクリエイターが、十話それぞれを短編映画にしたものを、和歌山大学の『般教』(パンキョウ、懐かしい響き笑)の『哲学』の講義で観たことがあります。一話ずつ観てから、講義を受けるといったスタイルだったような記憶が。確か天野先生だったかな。和歌山大学には社会人聴講生として、現役の大学生と同じ授業を受けられる制度があります、お金払えばね、割と高めですが。仕事と仕事の間で、暇していた時期がありまして、いや、失業中にお世話になったことがあります。それと、夏目漱石という人は凄い頭のいい人で、彼の脳を、ホルマリン漬けして、東大の研究室のどこかに密かに保管されている、いつの日か復活することを信じて、のような都市伝説的な話も聞いたことがあります。
夏目漱石に関して、『もしかしたら』と思っていて、岡潔も頻繁に語っているような、これも『もしかして』と思っていた状況で、緊急の入院生活を送る羽目になりまして、私が。その医科大学の売店に『それから』があった訳です。暇でどうしようもない入院生活で、漱石の『それから』の文庫本、買ってしまいました。読了はしていません。今もまだ。ただ、読み進める中で、あの『坊ちゃん』の時にただただ、鬱陶しかった表現や日本語、漢字の使いまわし、は『味』というか、絶妙なんじゃないこれ?という感じで、此処まで自由に表現できている、使いまわせている、というのは、この明治の時代の表現かと勝手に思っていた奴が、完全オリジナルの表現力という奴なのかもしれない、と『もしかして』思う訳です。
岡潔の常用漢字に文句をいう件(くだり)の意味を、漱石の表現力の限定に繋がるかも、という観点で、仰(おっしゃ)っていることが理解出来ました。(気がします)
あと岡潔の中心的問題と私の中で勝手に位置付けている『情緒の中心』『情操の中心』といった概念も、漱石の影響が色濃いのではないか?と疑っています、今となっては。
そんな、こんなあ、の時にこの『文豪の凄い語彙力』というこの本を、何かのついでに見付けまして、気にはなっていたのですが、気になっている本全部購入するような、甲斐性もない自分なので、誤魔化し誤魔化し、やり過ごしていたのですが、勢いで買っちゃいました。Amazonで、プレミアム会員なので、翌日に来ました、今、目の前にあります。勿論読了していません。どうも、単語、がどの作家のどういう作品にどう使われているのか?という紹介されているような感じにお見受けします。分かりませんが。
漱石の他の人はどうなのか?と思ってみても無かった状況なので、これはタイミングだなあ、と思います。一発目の紹介が『芥川龍之介』って、最早(もはや)、運命的ですらあります笑
ボツボツ、ボチボチ読んでいきたいなあ、と思っています。